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阪急とともに [鉄道]

久しぶりの更新となってしまいました。

本日は阪急についてちょっと触れておきたいと思います。
幼稚園の途中から、高校を卒業するまで、私は阪急沿線に住んでいたので、阪急には格別な思いが今でもあるのです。

どこへ行くにも阪急電鉄。
中学・高校は西院まで、小学生の時の塾は大山崎まで通った。

特別な買い物は梅田の阪急百貨店へ。
母親によく連れて行かれた。
阪急百貨店の中だったかどうかは定かではないが(少なくとも現在は阪急3番街にあるらしい)、梅田に出かけた時にはよく、サンドウィッチの店「グルメ」で食事をした。「こんなに美味しいサンドウィッチが世の中にあるのか」と感動したものだった。

阪急の梅田駅がまた感動的だった。
9番線まである頭端式のホームは壮大で、2階乗り場やら3階乗り場など、わけがわからないほど大きかった。
先の3番街のほか、17番街とか、32番街とか、色々なショッピング街があったのだが、どこをどう行けばよいのか、いつも迷ったものだ。
そして、阪急百貨店は、荘厳なアーケードに面していたと記憶している。
兎に角、梅田駅周辺の阪急街は未来都市のようだった。

私の当時住んでいたところにも、小学生の頃に「阪急ショッピングプラザ」なるものができた。ボクたちは、当時「ショップラ」と、意味もなく短縮して呼んでいたものだ。大きな本屋やレコード屋が入っていて、中学・高校の頃は毎日のように立ち寄っていた。

野球はもちろん阪急ブレーブスだ。
アンチ○○であった父の影響で、始めは無理やりファンになったような気がするが、「阪急子供の会」とかいう阪急の応援クラブに入って、何度か西宮球場にも行った。
先の「ショップラ」で、福本豊と加藤秀司(現:英司)のサイン会があったこともある。30分くらい待たされたと記憶しているが、しっかりサインをもらいました(どこへいってしまったか…)。
誰かからお下がりでもらったユニフォームに、「ブレーブス」と「背番号3(長池選手の背番号)」のロゴをつけて、草野球をしに行ったものである(何かいつかの記事でも同じことを書いていたような気がする…)。

ところで、何故いま阪急なのかというと、実は先日鉄道模型の店を回っていたところ、「本日再発売!阪急6300系」と、カトーのNゲージモデルを見つけてしまったのである。4両基本セットで6,500円程度と、比較的手頃な値段だったので、つい買ってしまったのである。
6300系はボクが小学5年生の頃にデビューしたと記憶しているが、たちまち虜になってしまい、わざわざ梅田まで乗りに行ったものだった。
当時の阪急京都線の特急は、梅田を出て隣の十三に止まると、そこからは京都の大宮までノンストップで、烏丸を経て河原町が終点だった。つまり、大阪と京都の直行便だったのである。

そこで、我が家を疾走する6300系の様子をご紹介したい。
この6300系は、昭和51年のブルーリボン賞を受賞している傑作である。
ドーデス?

それではまた!


After You've Gone [鉄道]

昨年5月14日に閉館となった、交通博物館のその後をレポートします。

交通博物館の看板コンビ、D51と0系新幹線は撤去されている(2ヶ月前には既になかったことを確認している)。

2階の休憩所と本館を結ぶ通路は撤去されている。無残な姿だ。

鉄橋に書かれていた交通博物館の案内表示は消された。
この四角のマスには「交通博物館→」と書かれていた。
ここには掲載しないが、この鉄橋の裏側のマスに書かれていた表示も消されたいた(裏側は「←交通博物館」)。

建物そのものにはまだ表示が残る。いつまでこの雄姿を拝めるのだろう。

それではまた!



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SAGAで探した赤い橋 [鉄道]

ボクは先日、たまたま「のだめカンタービレ」の最終回を見ていた。

失意の「のだめ」は故郷の福岡に帰ってしまう。
千秋は、「のだめ」を追って、福岡へと向かう。
(飛行機ではなく、新幹線で行くところにボクは共感してしまった。)

博多に着くと、千秋は「のだめ」の住んでいる駅を路線図で探す。
福岡の都会に住んでいると聞いていたため、当然、鉄道が通っていると思うのであるが、住所である大川の駅は見当たらない。
そこで、タクシーを飛ばして、住所を頼りに「のだめ」を探すのであるが、メーターはドンドンあがっていく…

「のだめ」は一人で川岸を歩いているのだが、ボクはその背景にそびえたつ、赤い橋に目が点になってしまった。
交通博物館にあった、可動橋の模型の橋ではないか!

ボクは早速、交通博物館のガイドブックを見た。
「筑後川橋梁」とある。そうか、筑後川なのか。
マピオンで筑後川近辺を探すと、ほどなく見つかった。

この可動橋は、昭和10年に建設された鉄道用の橋である。
汽車が通る時のみ可動橋が降り、それ以外のときは上げられ、船が通れるようになっていた。
昭和62年にここを走っていた国鉄佐賀線が廃止となり、一時は撤去の危機に晒されたが、住民らの強い意向で保存が決定し、平成8年に、可動式の「遊歩道」として再出発した。
平成15年には、国の重要文化財に指定されている。

ボクは、この週末に小倉に行く予定となっていたので、是非訪れたいと思った。

筑後川が、福岡と佐賀の県境を流れているので、双方からのアクセスが可能なのであるが、ボクは佐賀ルートを攻めることにした。
小倉から新幹線(こだま:2×2のシートで楽々快適)で博多に行き、博多から特急「かもめ」に乗り継ぎ、佐賀で下車。
ここからバスで25分程度、ほとんど貸切状態で目的地近辺の諸富橋まで乗車。
筑後川の川岸にでるとあの橋が目の前に広がった。

橋の可動部分まで行くと、管理人さんがいた。
地元の人が、ごくまれにこの橋を渡るほかは、周りにほとんど人がいないため(川岸で橋の可動のビデオ撮影をしていると、あまりの人のなさに怖いぐらいだった)、管理人さんからは「ようこそー」って感じで、「のだめカンタービレ」のロケがどの辺りで行われていたとか、いろいろとお話を聞くことができた。

ボクは千円札で500円の絵葉書を買い、おつりは寄付箱に入れた。

それではまた!

筑後川昇開橋

のだめが歩いていたのはこんな場所だったか

交通博物館にあった模型


Galaxy Express [鉄道]

10:50PM。
八重洲で一杯飲んだ後、家路へと向かうために東京駅の改札をくぐると、すぐに東海道線の特急・急行の発着ホームがある。
この時間、西へ向かう夜行列車が待機している。
飲み屋のラスト・オーダーの時間は、この汽車に間に合うように設定されていたのか?

寝台急行「銀河」。
11時ちょうど発の大阪行き。

北口からホームに上がると、最後尾の勇姿が目の前にある。
5~6人が写真を撮っていた。

南口からホームに上がれば先頭だ。
ただし、牽引する電車の正面は見えない。

これに乗って寝ているだけで、明日の朝には私のかつての故郷、大阪に着くのである。
そういう思いでこの列車に見とれてしまう。

それではまた!


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工業地帯をゆく [鉄道]

先週末、悪天候にもめげずに鶴見線に乗ってきました。

14:30 鶴見発

海芝浦行きに乗車。
席に随分ゆとりはあるが、思ったよりも人がいる。
私の乗り込んだ1両目にいる人たちは、どうやら一つのグループのようである。
年は多少のレンジがあるようだが、私の年代とそう変わらないようにお見受けした。
一番前で、運転席の後ろに陣取っている人もいる。
どうやら「テツ」と呼ばれる、鉄道愛好家のようである。

鶴見駅を出ると、暫く高架上を走るが、だんだん地上へと近づくとともに京浜工業地帯へ突入してゆく。

国道、鶴見小野、弁天橋を経て、浅野に到着。
ここから海芝浦行きは右に折れて行くのだが、この分岐点の浅野駅は面白い。
ホームが扇形に広がっていて、その両脇に電車が止まるのです。
ちょっとわかりにくいかもしれないが…

14:37 浅野発

浅野を出て暫くすると埋立地の端を走行するため、進行方向左手には海が広がる。
本当にすぐ海なので、遊園地のアトラクションにも劣らない迫力である。

これが次の新芝浦駅。
ホームの向こうはすぐ海であることがわかりますね。

新芝浦を出ると、今度は少し内陸に入りながら右に90度向きを変え、再び埋立地の端を走行。

14::41 海芝浦着
90度向きを変えたために、海の向こう側の風景が変わっていることに気づきますね。

先のグループを含め、結構な人がここで降りた。
でも、誰も改札から出ない。だって出られないから。

ここは東芝の敷地内にあるので、会社のIDがないと改札から出られないのですね。
改札に駅員さんがいると思えば、東芝の守衛さんだった。

この駅、改札を出られないという不思議な駅だし、海すれすれのホームからの眺めは素晴らしく、「関東の駅百選」の一つとなっていることで、ちょっとした有名な駅らしい。
ホームの奥には、海沿いに公園もあり、折り返しの発車まで、ゆったりと過ごすことができる。

15:00 海芝浦発

浅野まで戻って、扇町駅行きの上り電車に乗車。

次の安善では、近くに米海軍の燃料基地があるためタンク貨車だらけ。
大川行きはここを過ぎると右へ大きくカーブして行くのだが、これは扇町行きなので、直進。
武蔵白石を過ぎて、浜川崎に。ここでは、南武線(支線)との乗り換えが可能。
次の昭和を過ぎると、終点、扇町だ。

15:17 扇町着

とくに何があるわけでもないが、ひっそりとした装飾アーチがいじらしい。

15:20 扇町発
15:35 国道着

とくに何の変哲もない高架上のホームである。

ところがこの下がすごい。古めかしい階段を下りて改札を出ると、そこには駅が開業した昭和5年当時のそのままの姿が広がっている。

ドーム型の高架下には、ほんの数件ではあるが、飲み屋や釣り船屋が残っており、何ともいえない情景だ。かつては多くの商店街で賑わったらしい。

16:15 国道発
16:17 鶴見着

鶴見線は面白い。
京浜工業地帯のど真ん中を縦断していく風景は圧巻。
国鉄が昭和18年に買収する前は、私鉄の鶴見臨海鉄道が営業していたのであるが、大正15年の開業当時は貨物線だけだったという。

駅名も、工業地帯に因んだものが多く、例えば、浅野は浅野財閥の創立者、新芝浦・海芝浦は東芝の旧社名である東京芝浦電気、安善は安田財閥の創立者である安田善次郎、昭和は昭和電工、扇町は浅野家の家紋の扇に由来するものらしい。

そうかと思えば、国道は、国道15号線が駅の前を通っているからという、呆れるほど単純な理由によるとのこと。
埋立地なので、自由に名前をつけたのですね。

因みに、安田善次郎は、オノ・ヨーコの曾祖父(母方)にあたるそうです。

それではまた!


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小倉駅のブルース [鉄道]

その日、ボクは小倉駅の4番ホームで、9時19分発の博多行特急「ソニック8号」の到着を持っていた。4番線は、東西に伸びているホームの北側にあるので、大分方面からやってくる特急は右手から侵入するはずだ。そろそろ姿が見えてもいい頃だろう…と思いきや、意表をつく左手からの侵入。
「あれ~方向感覚がずれているのかなア」
一瞬迷ったが、やってきた列車は間違いなくソニック8号だったので、そのまま乗り込んだ。程なく指定の座席に辿りついたが、ここでまた頭が「???」。
座席が4人がけのフォーメーションになっていて、しかも女性がこちら向きに座っている。
「この人、座席を進行方向に戻してくれないかなア」
と思うのも束の間、列車は思っている進行方向とは逆に動き出した。
この時点で、座席を戻さなければいけないのは自分だったことを悟った。
そう、この列車は小倉駅で折り返していたのである・・・

小倉駅の面白さの一つです。
ホームの構造は「通過式」なのに、「頭端式」のように使われているために起きた現象ですが、どうやら、これは小倉駅が1958年(昭和33年)3月に現在の位置に移転したことに関係があるようです。移転前の小倉駅は、800メートルほど離れた一つ先にある、現在の西小倉駅にあたる場所にあったそうです。今では、西小倉駅が博多方面に向かう鹿児島本線と、大分方面に向かう日豊本線の分岐点にあたり、その一つ先の小倉駅で折り返すということです。


その日、ボクは小倉駅の吹き抜けのコンコースを、バスターミナルのある南口へと向かった。
ふと見上げると巨大な金属の塊が侵入してくる。
まるでホーク1号がパトロールを終え基地に帰還するように。
実はモノレールだ…

これも小倉駅の面白さの一つです。
小倉駅ではモノレール(北九州高速鉄道)が駅ビルの3・4階にあたるコンコースから発着しているのです。

1985年のモノレール開業時には、地元商店街の反対にあって、一つ手前の「平和通駅」が終点でした(当時の駅名は「小倉駅」)。一つ手前で乗客を降ろして、商店街を歩かせるという魂胆だったらしいが、駅に直結していない不便さから利用客が減少し、モノレール自体の営業危機を招いてしまったとか。
その後1998年の小倉駅新装オープンに伴い、めでたく駅まで延伸されました。

そして、こんなところにも小倉駅の面白さがあります。

小倉らうめん横丁。駅の「ひまわり通り」2階にある。
昭和のレトロな町並みに、ラーメン店5軒が結集。
    

小倉食堂。同じく「ひまわり通り」の2Fにある。
言ってみればフードコートですが(英語にしただけか)、ちょっと大人というか、オヤジの雰囲気が好みだ。
ここには「山小屋」というラーメン屋が入っているが、東京にも出店している。
先日所用で東陽町に行ったときに見つけた。

駅の北口と南口を結ぶチョット淋しげな通路だが、「チャリ」という言葉にホットする。

ボクは1986年から実家が小倉にあるので、新装前の小倉駅も、小倉駅に繋がる前のモノレールもよく知っていなければならないのに、何故かほとんど覚えていない。
ボクはいつも、同じく「ひまわり通り」の3階にある井筒屋小倉駅店でお土産を買って旅を終えるのだが、昔からそうしていたのだろうか・・・なんて、自分でこの記事を書きながらふと思ってしまった。

それではまた!


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九州鉄道記念館~写真で綴る門司港 その1 [鉄道]

門司港の大阪商船ビルにある「わたせせいぞうと海のギャラリー」を訪れたことから、ここ2回ほど「わたせせいぞう」関連の話を書きましたが、この勢いにのって、しばらく写真を中心に門司港の風景を紹介したいと思います。私は過去2回訪れただけで、網羅的に把握できているわけではないのですが、気に入ったスポットをいくつか紹介したいと思います。

今回は「九州鉄道記念館」。

2003年8月にオープンした新しい博物館なのですが、1891年に門司港駅(当時は門司駅)の開業とともに建てられた、通称「赤レンガ」と呼ばれる旧九州鉄道本社が使われており、「新しいけど古い」鉄道の博物館であります。老朽化から今年5月14日に閉館となった東京の交通博物館とは対照的です。ボクが訪れたときは丁度3周年記念で、復刻硬券切符を配っていました。

まずは案内板。”Since 2003”という文言に、ちょっと照れてしまうネ。

旧0哩(マイル)標。1891年の門司港駅開業とともに、九州鉄道の起点として定められたところ。1914年に門司港駅が現在の場所に移ったために、起点も変更されたが、九州鉄道記念館のオープンに伴い、もともとあった場所に「旧0哩標」として再現されたのサ。

これが、記念館の建物である旧九州鉄道本社の建物。

入り口を入ったところのインフォーメーション。特急「ゆふいんの森」の先頭部分が使われていておしゃれ。

記念館内部の様子。むき出しの赤レンガがいい感じ。東京駅復原工事のために今年3月に閉鎖された「東京ステーションギャラリー」を思い出す。

大パノラマ(模型電車運転場)。描かれている風景が、改めて九州にいることを実感させる。この桜島が描かれているのは、真ん中から向かって右よりの部分にあたる。ここよりさらに右側に阿蘇山が、左手奥には関門橋が描かれている。
なお、パノラマ運転時間は約10分。東京の交通博物館は30分近くやっていたので、随分短い感じがしたネ。

屋外展示場に停泊する581系寝台電車「月光」。581系にも色々とあるが、特に「月光」というネーミングが好きだった。ボクが鉄道に夢中になった頃、既に「月光」は引退していたのサ。なお、「みどり」というのは「月光」の昼間の姿だったとは知らなかった。

581系内部の座席。屋外展示車両のいくつかは、中にも入ることができる。この座席で一度寝たかった。

ミニ電車。単に乗らされるだけのものではなく、速度調整もできるようになっている、本格的な電車なのだ。

それではまた!


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天正十年元旦 [鉄道]

形あるものいつかこわれる・・・よく耳にする文句ですが、この言葉に触れると、井上靖の「天正十年元旦」という短編小説を思い浮かべます。
この話は、武田勝頼、織田信長、明智光秀、羽柴秀吉の、天正十年(1582年)元旦における、それぞれの思いを描いたものです。この年の3月には、武田家が滅び、6月には信長が光秀に、光秀が秀吉に討ち取られるので、いわば運命の年の幕開けであるわけです。
この中で、明智光秀は小さな茶会を開いているのですが、自分の茶碗に小さな疵があることに気づき妙に気になります。本文では、この情況について、「形あるものはいつかは壊れなければならぬ。自然の理である。併し、いつ壊れるか、これはその物の持っている運命である。」と記されています。
特に変哲もない話なのですが、何故か私の意識の中で、この話は強く印象に残っているのです。もしかしたら、運命が凝縮された、「天正十年元旦」というタイトルが好きなのかもしれません。どうしてももう一度読みたくなり、大枚をはたいてハードカバーの井上靖全集の一冊を買ってしまいました。来るべきイベントの前に。

・・・・・・

本日、交通博物館の70年の歴史の最後を見届けることができました。多くの人が、いつまでも名残を惜しんでいました。拍手が鳴り止みませんでした。

それではまた!


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出雲を見上げ、川面を見下ろす [鉄道]

「今日はいいんじゃない?2階とか3階に行くのは。もう何回も来たんだし。」
「でも、2階や3階のものこそ、埼玉に行っちゃったらもう見られないよ。」
「・・・あ、○○ちゃん、ほら電車が走ってるよ~」

万世橋上にて、交通博物館の開館待ちで並んでいた時にふと聞こえてきたご夫婦の会話です。小さなお子さんを連れていらっしゃる。この日曜日、さようならキャンペーンの硬券切符の第5弾を入手すべく、眠い己に鞭打ってここに来ました(前夜はライブに行っていて夜更かしをしました)。煉瓦アーチの上には、ブルートレインの「出雲」が運ばれてきていました。これも、さようならキャンペーンの一環です。

この日は天気もよく、万世橋から見下ろした川面に映る自分の姿を写真に収めたりして、リラックスモードであります。ど真ん中が私。

遺構ツアーが前日より完全予約制になったせいか、GW中の割にはそれほどの列ではありませんでしたので、相当な混雑を予想していた私にとっては、全然得しているわけではないのにちょっと得したような、ささやかな幸せに浸っておりました。相田みつをの「しあわせはいつも自分のこころがきめる」を思い出しました…。ちょっとスケールが小さいですけど。

またまた、同じご夫婦の会話が聞こえてきました。
「この後、秋葉原に何か用事があるの?」
「実はあるといえばあるんだよね。ちょっと○○をみておきたいんだ。」
「今日はいいんじゃない?」

お父さんは、2度目の「今日はいいんじゃない」攻撃を受けてしまいました。さらに、追い討ちをかけるように、
「そちらは何か用事があるの?」
「できれば有楽町のビックカメラに行きたいんだけど」
「何で?」
「ほら、ゲームのソフトを見たいのよ」

このお父さん、交通博物館に来るのにも、色々とご苦労されているんだろうなと。シャーロック・ホームズ的な観察では、「この一家は、都心からそう遠くはない場所から来ていて、都内の繁華街を一日楽しむのであろう。お父さんは交通博物館に家族で行く条件として、この後は奥さんの行きたい場所に付き合うのであろう」ということになりましょうか。

私も2人の子持ちなので、よくわかるつもりなのですが、子供が小さい時は特に、お母さんにとってはお父さんのいる日が待ち遠しいのでしょうね。お父さんは自分の行きたいところがたくさんあるのでしょうが、お母さんの手前それはできないので、いかに「家族」という単位で動く範囲内で、自分の欲求も満たしていくか、腕の見せ所でしょう。因みに私は、本日朝8時30分に家を出て、10時15分に帰ってきたのですが、私が秋葉原から帰るコールのメールをするまで、私が出かけていたことに家族の誰も気づいていなかったようです。

5月14日の閉館を前にして、展示する側も見る側も、さようならモードは更に高まっています。開館時には、副館長を始めとして多くのスタッフの方が出迎えておられます。なぜ副館長とわかるかといえば、交通博物館の閉館記念DVDで館内の解説をされているのを見たからです。

旧万世橋駅の中央階段の遺構である1階の休憩所は、ついに踊り場への階段の様子も公開されまました。

最後に、入り口前の新幹線とD51には「さようなら」の文字が書かれていました。D51に飾られているこいのぼりにはついジーンと来てしまいました。もうすぐ子供の日なんだなあ。

それではまた!


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交通博物館~カウントダウン [鉄道]

この週末、またまた交通博物館に行って参りました。

主目的はビデオ撮影と硬券切符の入手で(交通博物館のさよならキャンペーンで先着順に配っている、当時の万世橋駅の切符の復刻版)、開館の20分前には到着しました・・・しかし私の見通しは甘かった。1ヶ月前に行った時には、開館直前でせいぜい50メートルの列だったのですが、20分前にしてその倍はあったでしょうか、万世橋の端まで列は延びていたのでありました。なお、列に並んでいる人はいわゆる大人が中心で、年配の方も随分おられました。70年の歴史の賜物ですね・・・これでは遺構ツアーに参加できたとしても午後遅くになるなと思い、ツアーはあっさりと断念しました。

その代わりといっては何ですが、3月21日からはスタンプ・ラリーなるイベントが始まっていたのですね。館内の1階から3階に設置された、9個のスタンプを専用の台紙に押すだけで、オリジナルのクリアファイルが貰えるというものです。

ということで、硬券切符を貰った後は、すぐに遺構ツアーの列を離れ、スタンプ・ラリーに参加(切符配布と遺構ツアー参加希望の人は同じ列に並ぶのですが、切符は係りの人が列の順に配って回るので、遺構ツアーに参加しなければ、切符を貰った時点で列を離れることができるのです)。

1階から上がりながらスタンプ9個を集めた後は、4階から順に下がりつつビデオ撮影を実行。ビデオは1ヶ月ほど前に、遺構ツアーやパノラマ模型運転を含め、一度撮影しているのですが、撮り漏れた部分も随分あったので(ボタンを押すと動作を開始するからくり物等)、今回の第2回撮影となったのでありました。まだ、1階で遺構ツアーの申し込みのために並んでいる人が随分いたので、早い時間の2~4階はガラガラで、思い存分に撮影ができました。但し、それでも完全に誰もいないわけではないので、例えばリニアモーターカーの模型のところで、動作ボタンを押してリニアを走らせる一部始終をビデオに一人で収めている私の姿は、奇異な目で見られていたかもしれません。

ピンボケしていますが、こちらがスタンプ・ラリーの戦利品。

ということで、当日の目的を着実のこなしつつあったわけですが、この日は実は大きな収穫がありました。1階の休憩所は、万世橋駅のプラットフォームに続く中央階段の一部であり、ここの壁にある扉は、現在遺構ツアーで公開されている通路とは別の、もうひとつのホームへ続く通路であることを、3月13日付弊ブログで紹介したとおりですが、何と、この扉と、壁の一部が繰り抜けられて、ガラス越しに当時の姿が見えるようになっていたのです。味なことをやりますね。

1ヶ月前の休憩所の壁。

現在の姿と中央階段の内部。
  

記念品も、さよならモードが高まっており、特製絵葉書などが新しく売られていますし、DVDも本日発売になるとか。5月14日の閉館まで、今後どんなスペシャル・サービスがあるのか、まだまだ目が離せませんよ。

・・・・・・

なお、、3月13日付弊ブログでは、交通博物館に残る万世橋駅の面影について書かせていただきましたが、以下の通り追加のご報告をいたします。

パノラマ模型と1号機関車の間にあるシャッターは万世橋駅の中央玄関にあたるとのこと。

3代目万世橋駅の改札は、博物館正面の新幹線の右にあったことは以前にも書きましたが、ちょうどこの窓の部分が改札口にあたるそうです。

最後に、電車から撮影した、万世橋駅。この温室のようなものが、遺構ツアーでホームを見学するブースになります。

それではまた!

(参考:3月13日付弊ブログ)
http://blog.so-net.ne.jp/fumi-chan/archive/20060313


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